2012年1月11日水曜日

三味線猫と猫のおばさん


今日、近所の猫に詳しいおばさんに、夜に猫を外に出すことは控えた方がいい、と言われた。市川近辺で、三味線にする目的で夜に猫を捕まえている業者がいるらしい。
冗談だろう、ともちろん考えたが、どうも本当のことらしい。
大型ゴミを引き取ります-という車が、いつも通るようになり、どうせ引き受けるときには金を取ることを誰もが知るところとなり、無視されるようになったのか最近は来ない。一方で、そんな仕事が出てくるぐらい、金がないところにはないのか、と呆れた。今日日、三味線の需要なんてたかだかしれているだろう。キョンの飼い猫の「三味線」が笑い話にならなくなってきた。

そのおばさんは、近辺の猫に異常に詳しいというか、すさまじく猫にコミットメントをしている。人生を賭けているといってもいい。
日々、捨てられた猫を保護して、里子を探すボランティア活動をしている。そんな聞くだけで、無理な仕事を……とこちらは思ってしまう。猫は年間2回ぐらい発情するし、一度に3~5匹子供を産む。そのため、ねずみ算式にどんどん増える。
野良猫の寿命は2~3年と短いと言われているが、増える方にきりがないため、保護活動に終わりはなく、甲斐のない仕事なのではないだろうか、と思ったりする。だが、猫に思い入れ、何とか一匹でも猫の命を守りたいと思っているので大変である。よく心が折れないものだと思う。


猫を飼うようになってから1年と数ヶ月になるが、猫のことがそれなりに気になるようになってきた。野良猫出身のウチの猫は非常に気が強く、気分が乗らないとダッコをしていても、かみついてくる。縄張りを主張するために、壁に爪を立ててがりがりとやられるので、特に階段周辺の出っ張り部分は、表面がぼろぼろにされ、漆喰が表に出ているところもある。
仕方ないので、掃除の際に、爪を立てられている壁の該当箇所に、もれなく全部に上から白いガムテープを貼り付けた。一応、この2日間は臭いをふんふんとかいだ後、違和感を感じるのか、爪を立てることはない。代わりにダンボールを廊下に置いてあり、がりがり用で、もれなく、がりがりやっていて、ぼろぼろである。ただ、それなら被害がなくていい。

一日に一度は、縄張りの確認のために外出をしたがり、窓や扉のところに構えては、鳴く。出せと、言っていることはこちらもわかる。お腹減ったと主張しているときもわかる。それぞれ鳴き声が変わる。ただ、寒いのか1時間ぐらいすると戻ってくる。窓際にやってきたり、隣の屋根からジャンプして取り付くらしく屋上から、大声で鳴くので、開けろといっていることがわかる。

最近はコタツの中を占領する。童謡のように丸くなるのではなく、全身を広げて夏のバカンスのように、のべっりと広がっていることが多い。多分、丸くなるには熱すぎるのだろう。足は投げ出されており、放射板として使っているように見える。
邪魔である。
コタツのど真ん中を占領していることも多く、足をいれるともれなく当たる。しかも、こちらの足をネズミのようなおもちゃと思って、じゃれて遊んでくるので、これまたひっかいたり、甘噛みとはいえ、かみついたりと痛いのだ。
イラッとすると、蹴飛ばして追い出す。
ただ、しばらくすると、ころっとこちらの顔を伺うようにやってきて、いかにも甘えた声で、にゃう、と鳴かれれば、こちらも妥協せざる得ない。


話がそれた。
町に暮らす猫はどうしても、縄張りが被る。そのために、猫の諍いは絶えない。上下関係を決め、縄張りに対して関係性を決定づけるのだ。そのため、家の外では、猫同士の激しいケンカの声がよく響く。ただ、猫はお互いを傷つけ合うことは少なく、鳴き声による前哨戦でほとんど勝負がつくものらしい。

ウチの飼い猫にはライバルがいる。首輪を付けている灰色の猫で、一回り大きい。毛並みもいいことから、まともなご飯を食べているようだ。最近でも、よく二匹が対決しているらしい唸り声が上がってくる。
その灰色猫がウチの敷地に入ってくる進出に対して、縄張りを維持しようという闘いが続いている。ただ、ウチの猫が一回り小さい分、縄張りは押し出されているようで、細い通りを越えたアパートの方まで進出している姿をよく見る。そちらには強いライバルはいないようだ。

犬は人に住み、猫は家に住むというが、我が家には、飼っている猫以外にもう2匹家に住んでいる猫がいる。家の外の野良猫である。飼っている猫の母猫の白い猫に、秋にうまれた斑柄模様のチビ猫がいる。もう一匹子猫が生まれていたが、ある日、固くなって死んでいた。おばさんによると、どこかから落ちて当たり所が悪かったのではないか、という。庭に埋めた。
二匹の外猫は、餌をくれないかと、人間の姿を見ると鳴く。
白い親猫は眼つきが悪く、悪人ずらをしている。もう自分の子猫のことはすっかり忘れているらしく、完全に、子供は縄張り争いでライバルになっている。
チビ猫は生まれた当初はちんちくりんの変な顔をしていたが、成長するにつれて、今ではかわいらしい顔になっている。勝手口を開けると、ぴぎゃーといって、顔だけ家に入れてくる。しかし、中には入ってこない。人の姿をみかけると、とにかく、ぴぎゃーぴぎゃー鳴く。とても、かわいらしい。
ただ、これ以上、増えてもらっては困るので、外の猫には餌をやらないようにしている。
餌をやらなくなって、もはや4ヶ月ぐらい経つが、それでもチビ猫は鳴く。何で鳴くんだろうかと、不思議に思っていたのだ。
おばさんによると「さびしい」のだそうだ。
……そうか、おまえはさびしいのか。

選ばれた猫と、選ばれなかった猫。

たとえ、餌をもらえなくとも、ちょっとでも構ってもらえることは、嬉しいのだそうだ。

ウチの猫はのうのうとコタツの中に転がり、外の猫はこの寒風の空で耐えている。


外猫に、ウチの猫が羨ましいといった感情はないだろう。猫が何を考えているのかは、表情がほとんどないので、わからない。よく擬人化された猫がキャラクターになったりするが、あれは人間が考えた物に過ぎないと言うことがよくわかる。
猫の脳は小さく、物覚えもそんなにいいようには思えない。移動空間のこと、気持ちのよい場所のこと、ご飯のこと、トイレのこと、他の猫との関係性のこと、大体そんなものしか頭の中で考えていないようにみえる。
選ばれたかどうかも、また、人間の側の感情なのだろう。
猫の立場を人間に置き換え、神の視点から、人を選んだり、選ばなかったりしている存在がいると仮定したら? ……猫と同様に認識できないに違いない。

ところで、ウチの猫は昔は、外猫が縄張りをおかすのではないかと警戒していた時期があるが、最近では、そうした警戒をしなくなった。家の中にまで入ってこないため、自分の縄張りが侵されることがないという自信があるからだろう。
だが、外出するときは、玄関か、リビングの窓を選び、勝手口から出ることはほとんどない。それなりに縄張りの区分けは存在するようだ。
外猫は、何をどうやって食料を確保しているのかは、わからないのだが、2匹とも生きている。この寒い正月を過ぎ、帰省して戻ってきても、誰も餌をやらなくても、まだ何事もなかったかのように生きていた。チビ猫は以前と同じようににゃーにゃーと鳴く。
ただ、やはり冬であり、特にチビはやせぎすにはなっていた。


さらに話がそれた。
猫のおばさんの話をしようと思っていた。
このおばさんのところには、とにかく野良猫の話がたくさん持ち込まれる。
また、猫に同情するため、それを何とかしようとこのおばさんは全部を抱え込む。このお正月にも、近所の教会の近くに5匹子猫が捨てられていたというので、保護をやっていたという。そうした猫好きのネットワークが存在しているらしく、その子猫は、幸い5匹とも引き取り手が見つかったのだという。
しかし、過去には、夏場にダンボールのなかに封をして5匹放置され、2匹がすでに死んでいて腐り出していたという可哀想なケースもあり、それを思い出して、おばさんは泣く。
首輪を付けたまま、猫を捨てる人も案外多いという。駆除されないようと可哀想と思って、そうするのかもしれないが、何が可哀想なのかは、よくわからなくなってくる。

市川駅の近くに広い屋敷があるのだが、そこに猫が山ほど生まれているポイントがあるらしい。コインパーキングの駐車場で、餌をやる人がおり、それらの猫がお屋敷で子供を産んでどんどん増えているらしい。
可哀想に見えるからと、無責任に餌をあげてると、猫はどんどん増えていく。おばさんは、そこの場所だけは、見なかったことにしているという……。


現在、市川市では、犬の保護(駆除)は行っているが、猫に対しては行っていないのだそうだ。捕まえるのが大変だし、案外と住民との間のトラブルも起きていないのだそうだ。言われてみれば野良猫の駆除を徹底してやっているという話は、聞かない。それでも特に子猫の増加によるトラブルは生まれる。

猫を飼うようになってから、気にするようになったのだが、駅周辺まで含めて、まわりは野良猫だらけということに気がついた。10年以上住んでいて、こんなに野良猫がいることには気がつかなかった。私の認識のフレーミングが変わったのだ。
おもしろいことにいる猫もほとんど同じ。白か、斑か、灰色、黄色と白。ほぼ、これしかいない。顔もよく似ている。
うちの猫かと思ったり、うちの外の白猫にそっくりで、こんなところまで遠征しているのかと、第二の仕事場のファミレスに行く途中に思ったりしたことがあった。だが、国道14号を越えて、まさかここまで来ることはないだろうと思った。
要するに、親戚だらけなのだろう。遺伝子のパターンが決まっており、その4種類程度しか違いないという感じなのだろう。これが市川駅周辺の猫の個性だと思える。


そのおばさんが、昨日と今日続けて私の家に来た。外の白猫とチビ猫を捕まえにだ。
すでにどちらの猫も人慣れをしていないので、鳴きはするものの、近寄れば警戒して逃げてしまう。こうなると飼うのは容易ではない。
ただ、猫のためにはらはら泣くおばさんが、駆除をするために来たわけがない。
目的は、外猫に去勢手術をするためである。
費用はこちら持ち。

おばさんのネットワークの回答として、猫を増やさないためには、どうすればよいかという方策ははっきりしている。
過去、市川市のどこかで地区全体で猫に餌をやるな、というキャンペーンを張ったところが出たらしい。ところが、それでも猫の数は減らなかった。猫はどうやってか、とにかく自分たちの餌を見つけてくる。案外としぶといのだ。
町では、当然、生ゴミを食べたり、鳥を食べたり、ネズミを食べたり、様々な食べ物を獲得する手段があるため、生き残ってしまうのだそうだ。そして、また子供を産むので、結局、増えて、猫トラブルは減らなかったそうだ。
減らすために有効な対策とは、野良猫を捕まえて去勢手術を受けさせることだという。特にメス猫に有効で、オス猫を呼ぶフェロモンを出さなくなるので、去勢猫がいるエリアには近づきもしなくなるのだそうだ。それによって、猫の数は安定し、増えなくなるため、トラブルは劇的に減少する。
その地区は実際にそれを行い、その後トラブルはなくなったそうだ。

ただ、そんなものに市が助成をするはずもなく、誰かが費用負担をしなければならない。おばさんの活動に協力的な獣医が近所にいるため、通常の飼い猫よりは安い値段で、手術を引き受けてくれている。
それでも、まあお安くはない……。
野良猫にそのお金を払うには、かなりエネルギーがいる。
ウチの場合、家族でそうするべきと声高に主張する人がいたので、しょうがないと。親白猫がいくら悪相だからといって、早く死んじまえとは、さすがに言いにくい。殺す事もできない。放っておけば、また増える。
また、猫に同情してしまうぐらいは、見知った顔になってしまっているのだろう。
これも、また、猫の預かりしらぬところでの「選択」。
去勢後は、餌をやっても構わないので、外猫として厳しい自然環境で苦労しながらも、ウチの家に取り付きながら生きていくことになる。

おばさんは、まず、昨日、警戒心の強い大人の白猫を捕獲、そして、今日、チビ猫を捕獲。
捕まえ方は、昔ながらのトラップ。入り口と奥に餌を置いておいて、奥の餌を食べた瞬間に入り口が閉まるというもの。慣れたもので、猫をあっさりと捕まえた。猫の方も、案外と騒いだりしなかった。


猫のおばさんは、日夜、子猫の保護と飼い主捜し、野良猫の去勢とその資金を納得して引き受けてくれる人探しのために駆けまわっている。
そのために、とにかく忙しいらしい。毎日のように周辺の猫が引き起こすトラブルに対応できないかと方策を探っている。お金になるわけでもなく、ボランティア仕事はほぼ半永久的に続く。おばさんがやめれば、ウチの地区に同じようなことをする奇特な人はいなくなるだろう。
おばさんは、猫のコミュニティ仲間からは評価はあるかもしれないが、一般的には理解を受けにくいだろう。
猫が感謝してくれるわけでもない。猫が感謝状の一つぐらい贈ってもよさそうなものだが……。

たかが、猫のため。だけど、おばさんにとっては、それは何か特別なもの。
涙なくしては語れない、憐れな生命そのもの。
こういう人生もあることをスケッチとして、書いておきたかった。

2011年11月6日日曜日

こいつら本気でスカイネットの登場を止める気だ:「シンギュラリティサミット2011」の公開動画

10月15-16日にニューヨークで開催された Singulatiy Summit の動画が開催されています。シンギュラリティは、技術的特異点と呼ばれるもので、コンピュータと人間とが融合するという時代の到達を予言するものです。この言葉の提唱を始めた発明家であり、未来学者のレイ・カーツワイル(Ray Karzwail)は、コンピュータの速度が2年で2倍になるというムーアの法則が、このまま継続していくようであれば、2045年頃にそうした時代が起きると予測しています。

講演している人は、起業家でベンチャーキャピタリストの、Peter Thiel という人で、このサミットを主催しているSingularity InstituteというNPOに対して、06年に10万ドルの寄付を行っている人物です。Singularity Instituteは、2000年に設立された団体で、AIの専門家と、インターネットのアントレプレナーだった人が始めた団体です。もちろん、カーツワイルの影響は大きく、先進的なAI技術を通じて、シンギュラリティを肯定的に到達するための未来像を探り、加速化させたりするための団体のようです。 

Thiel氏は、講演の中で、テクノロジーの加速化、グローバリゼーションの広がりといったことを議論をしています。シンギュラリティの進行については、未来に対しての悲観的な見方と、楽観的な見方があり、それを楽観的なよう乗り越えて行かなければならないといったことも指摘しています。
 政府といったところにも働きかける必要性ののようなことも論じられているため、こうした考え方を政策へと反映させていこうという実務面での影響力を経済へとどう影響を行使していくべきなのかといったことも議論の対象になっているようです。

このSingularity Instituteは、シンギュラリティのための「Strategic Plan(戦略計画)」というものを発表しており、11年8月にアップデート版を発表しています。 中を読むと、カタストロフ的なリスクを避けなければならないといったことが、大まじめに書かれており、「ターミネイター」に登場する「スカイネット」のような存在の登場を押さえようということを本気で考えているようです。
単純なSF的な冗談であれば大したことなく、日本人の常識的な感覚からいうと、おいおいという初印象がします。
ただ、興味深いのは、投資家がこうした夢物語のような話に、深くコミットしているということでしょう。もちろん、それは新しく正確な未来を先に読み取ることで、的確な投資先を探すといういう目的がアントレプレナーやベンチャーキャピタルにとっては、合致しているからだろうと理解しています。
SF的な話に、実際的な話が乗ってくるところが、アメリカ実用主義的な考え方が通底しており、それを全世界に対して広げることに対して、あまり疑問を持たない彼らの発想がベースになっているように思えます。

公開している講演は4つで、カーツワイルの講演もあり、それぞれ1時間近くあるかなりのボリュームある内容です。どばっと、見るのが大変なので、ちょこちょこ見ながら紹介していきます。

2008年のサミットの様子が、RobotWatchに掲載されていました。日本語で読めるのは、これが唯一かな。 コンピューターが人間を超える日、「シンギュラリティー」は起こるのか 

カーツワイルの講演そのものはTED2009のものが、日本語の字幕付きが公開されています。 彼の議論が、上手くまとまっているものなのでわかりやすいです。約9分


彼は、2005年のTEDでも講演しており、そちらは23分。ただし、日本語字幕なし。
Ray Kurzweil on how technology will transform us

TEDは、アメリカで未来を論じていく場所として、強力になっているように思えます。GDCが一時、VIsion Trackというのを設定したことがあるのですが、TEDの影響があったのだろうと思っています。

2011年11月5日土曜日

テストの正答率を直前の5分で引き上げる方法:プライミング効果

マルコム・グラッドウェル『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』、光文社、2006年
Blink, Malcolm Gladwell, 2006

 プライミングは洗脳とは違う。「昼寝」とか「ぬいぐるみ」という単語でプライミングをしても、記憶の底にある子ども時代の個人的な情報を引き出すことはできない。私に代わって銀行強盗を働くようにプログラムすることもできない。一方でプライミングの効果は小さくない。
 二人のオランダ人研究者がある実験をした。雑学クイズのゲームから難問ばかり四二問集め、学生のグループに答えさせた。学生の半分にはゲームを始める前の5分間に教授になることについて考えさせて、頭に浮かんだことをすべて書き留めるように支持した。この学生たちは五五・六%の質問に正しく答えた。残りの半分にはゲームの前にサッカーのフーリガンについて考え冴えた。彼らの正答率は四二・六%だった。「教授」のグループが「フーリガン」のグループよりも物知りだったわけはない。頭がよかったわけでも、集中力があったわけでも、真剣だったわけでもない。「頭がよくなった」ように感じただけだ。そして頭のよさを示す概念、ここでは教授と自分と関連づけることで、難しい質問に緊張しながら正しい答えがすらすらと出てきたのだ。五五・六%と四二・六%の差は大きい。合格と不合格を分けるかもしれない。(P.61-62)

困ったことに、この翻訳本は参考文献リストが省略されているので、このオランダ人の研究者が誰なのかがわからない。英語版WikipediaのIndirect tests of memoryのWord Stem Completion (WSC) Taskに、「One of the first uses of the word stem completion (WSC) task was by Elizabeth K. Warrington and L. Weiskrantz in 1970」とあり、この研究者は、オランダ人のようなので、この研究者のようだ。そういう意味では、今から40年以上も前にわかっていた効果のよう。

人間は、自分の中で自発的に意志決定をしているようで、実は、無意識的には影響を受けており、それらを自覚することさえできないということを示している研究で、やっかいなことに、人種差別のような偏見の場合は、先にそういうものを持っていると、意識しないようにしていても、無意識的に偏見を裏付けするように行動を起こしてしまうという傾向が出てしまうという話が、この話の後に続いている。


この本もいかに無意識に得ている情報に人間が影響を受けやすいか、逆に、それを知識として知っていれば、利用できるか(利用されているか)が説明されている。サイエンスライターのマルコム・グラッドウェルの著作はどの本もおもしろい。


心理カウンセリングの知識を学ぶ では以下のように紹介されている。
【プライミング効果とは】
 プライミング効果は、一度受けた刺激が後に受ける刺激に影響を与えるというものをプライミング効果と言います。何度も関連のありそうな言葉を上げた後で、言葉を連想すると関連付けて考えてしまうのがプライミング効果です。
【プライミング効果の事例】
自動車、船、新幹線という単語を見せた後に、空を飛ぶものは何と聞くと、飛行機と答える可能性が高くなります。他にも飛ぶものはあっても、最初に聞いたものから無意識に連想してしまうのがプライミング効果といえます。

実際、テレビCMでは、こうした効果はよく利用されている。
有名人が何かの商品を褒めるために出てくるのは、無意識的にその人が持っている価値と結びつけ、商品購買の意思決定の際に何となく、望ましいと感じるモノを購入するように、すり込んでしまうためだ。
裏返しに、CMを見る場合には、何歳ぐらいの、どのような芸能人を使っているのかを見るとことで、その企業は、ある製品を、誰に売りたいのかが明瞭に見えてくる。30代女性に買ってほしい商品であれば、30代女性で望ましいイメージを持っている人が、必ず出てくる。
そして、当然のように、CMの世界には、幸せに包まれたような家庭や個人しか登場しない。

この短い引用から言えるわかりやすい教訓は、試験の前には「大学教授」とか難しいことについて考えて、紙に書き出すなんてことをやると、結果がよくなるかもしれないと言うこと。お試しあれ。

2011年11月4日金曜日

ソーシャルゲームの心理理解のヒント:不幸を受けた量は、幸せによって埋め合わせできない

ソーシャルゲームに、なぜ思わずはまってしまう人が出るのか、一方で、このタイプのゲームに、どこか満足感を得られないのかという心理に、手がかりとなる書籍を紹介する。

『まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』ナシーム・ニコラス・タレブ、2008年
Nassim Nicholas Taleb, Fooled by Randomness, 2004



なぜ、ニュース(短い期間)は雑音がいっぱいで、一方、歴史(長い期間)は雑音がほとんど取り除かれている(ただし、間違った解釈がなされるという問題はある)のかが説明できる。また、私が新聞をめったに読まない(死亡記事は別だ)のはなぜか、市場について無駄話をしないのはなぜか、それに、トレーディング・ルームにいるときはトレーダーではなく数学者や業務職と仲良くするのはなぜか、説明できる。毎朝『ウォールストリート・ジャーナル』を読むより月曜日に『ニューヨーカー』を読む方がいいのはなぜか(ここで言っているのは頻度の話だ。両者の知的水準がものすごく違う点はとりあえず脇に置いておく)も説明できる。
そして、偶然に気をとられてすぎた人たちが、何度も苦しんだ挙句、精神的に疲れてしまって燃え尽きになるのかはなぜかもわかる。なんと言おうと、苦しみは喜びで相殺できない(一部の心理学者によると、平均的な損失で人が感じる苦しみは、同じだけの利益で人が感じる喜びの2.5倍の衝撃力を持つ)。情緒面では赤字が出るのだ。
そういうわけで、ひっきりなしに株価をチェックする歯医者さんはとても苦しんだりとても喜んだりするけれど、この二つが相殺しあってゼロにはなってくれない。さらに、白衣を着た人たちが調べたところでは、この種の苦しみは神経系にひどい影響を及ぼす(よく起きる症状:高血圧。まれに起きる症状:ストレスによ記憶障害、脳の柔軟性の低下、脳障害)。私の知っているかぎり、トレーダーが燃え尽きた場合の症状はまだ厳密に調べられてはいない。でも、どうにもできないランダム性に毎日あんなに振り回されていたら、間違いなく心理的な影響を受けるだろう。(ガンにかかる影響もまだ調べられていない)。経済学者たちは、プラスやマイナスのショックについて、長いあいだちゃんとわからないままやってきた。彼らは、プラスのショックとマイナスのショックが及ぼす影響が、生物学的にも影響の強さの点でも異なっていることがわからなかった。儲けた後での判断と、損をした後での判断は大きく異なっているのだ。(P.93-94)

この議論は、タレブが同じパフォーマンスを出す歯医者の投資家と、月に1度ぐらいしかチェックしない歯医者がいるとして、一日中株価のチェックをし続けているような歯医者は、結局のところ、仮に儲かったとしても、精神的な損失が埋め合わされないほどに損を被るということを指摘している。
その根拠として、「利益と損失に対する脳の反応の非対称性」の心理学研究を上げている。巻末の付注に、3つ研究や研究者の著作が紹介されている。
そのため、投資家でもあるタレブは、できるだけ個々のノイズに振り回されないようにするために、新聞を読まないようにしているというものだ。

この議論は、未だにしっかりと解明されているとは言えない、「オンラインゲーム」や「ソーシャルゲーム」になぜ熱中してしまうのかといった心理と深く関係していると考えられる。
熱中している状態は、心理的に不安な状態になってしまうことが少なくない。眠っている間に敵に攻め込まれているのではないかというような形で、不安な心理を抱えて、必ずしも楽しいと感じないで熱中した経験を持っている人はいるのではないだろうか。
心理的な損失と報酬のバランスが会わないからこそ、その収支を合わせようとして、アイテムに課金してしまう。負けが込んでいるにもかかわらず、パチンコ台にさらにお金をつぎ込んでしまうという心理と似ていると、私自身は理解している。

ソーシャルゲームが既存の家庭用ゲームのユーザーから、嫌われる理由もその辺にあるのだろうと思う。完結した商品は、ストレスを与えられてもパッケージとして完結しているために、ストレスが予測できる安心感が存在するが、ソーシャルゲームの場合は、他のユーザーが関わるために、ユーザーがコントロールできないランダム性が高いため、高いストレスを受ける可能性があるからだ。
株式市場のようなところで起きる動きは、コンピュータ関連での技術革新が先行して起きることが多い。現金を扱っているために、間違いが許されず、また、収益を得るために正確な情報を持ちたいという強力な動機が参加者にあるからだ。
その技術や仕組みが、コモディティ化して、はるかに安価に提供できるようになったのが、ソーシャルゲームの一つの姿であるとも見ている。
人間の動きやパターンは、今後も様々な方法で分析する方法が登場してくるだろう。

Gehring, W. J., & Willoughby, A. R. (2002). The medial frontal cortex and the rapid processing of monetary gains and losses. Science, 295, 2279-2282.
Science誌に発表された脳科学の論文で、公開されているもの。ギャンブルを行った場合に脳がどのように反応するのかを計測し、脳の前頭前野が、何かを得るときよりも、損失するときの方が2.5倍反応することを上げている。ミシガン大学の心理学研究者。

Anxiety, Depression, and Emotion (Series in Affective Science) [Kindle Edition]
Richard J. Davidson
ウィスコンシン大学の心理学研究者。脳の非対称性を早い時期から議論し始めた人のよう。日本での翻訳文献はない。脳波計を使って仏教瞑想が、効果があるといった研究もしていたよう。
タレブはの参照元はこの書籍と思われる。訳すと「不安、憂鬱、感情」。

一般的な解説書として、ダニエル・ゴールドマン「なぜ人は破壊的な感情を持つのか」も上げている。EQなどを考えだし、日本でも知られているゴールドマンが、ダライ・ラマと行った議論を収録した書籍。

2011年11月2日水曜日

「クラウドソーシング」の10のルール

「クラウドソーシング―みんなのパワーが世界を動かす」ジェフ・ハウ、早川書房(原著2008年)

クラウドソーシングの考え方の多くの事例を交えつつ紹介している書籍。最終章の結論部分から、導き出せるという10のルールを抜粋・要約。本文はもっと長い。

現在では、これらの法則は、かなり一般的に知られるようになってきていると思うが、それでも、見直すチェックには向いている。


クラウドソーシングのルール


1 正しい方法を選ぶ
4種のアプローチに分けられ、組み合わせを合わせたものが多く、バリエーションがある。


・集団的知性、あるいは群衆の知恵
集団は個人よりも多くの知識をたくわえているという原則。難しい点は、彼らが知識を表現するための環境を作る事。
・群衆の創造
群衆は想像のエネルギーをたっぷりもっている。
・群衆の投票
群衆の判断力を利用し、大量の情報を整理する。
・群衆の投資
集団的財布を利用し、人びとの大規模な集団が、銀行などの金融機関のかわりに融資をする。


2 正しい群衆を選ぶ
自分の目的に応じ、正しい人びとを選ぶことが肝要。


3 正しい動機を与える
クラウドソーシングを成功させるのにもっとも重要な要素は、共同体が生き生きと、献身的に力を注いでくれることだ。人びとを巻き込むには、まず何よりも、彼らが貢献する動機を理解する必要がある。


4 早まってリストラをしてはいけない
群衆ならばただで仕事をしてくれるのに、同じことをお金を払って社員にさせるのはどうしてか? 理由はたくさんある。
「将来的に、好むと好まざるとにかかわらず、編集者の役割は、独白を伝えることではなく、対話を導くことになるからだ」


5 ものいわぬ群衆、あるいは慈悲深い独裁者の原則
クラウドソーシングの試みが大きな成功を収めた例では、群衆とそれを導く者、すなわちオープン・ソース・ソフトウェア・プロジェクトで「慈悲深い独裁者」と呼ばれる者が、活発にやりとりして作業を進めている。
誰かが決定者の役割をする必要があるのだ。コミュニティにはリーダーが必要なのである。


6 ことを単純にし、小さく分ける
クラウドソーシングの場合、なんらかの価値ある作業を実行するさいには、できるだけ小さい要素に分割することになる。
作業の性質を単純にすることも重要だ。これは群衆が愚鈍だからではなく、多様だからである。


7 スタージョンの法則を忘れない
スタージョンの法則(SF作家、シオドア・スタージョンにちなんでいる)によれば、どんなものも九〇パーセントはカスであるという。私が本書の執筆のために話を聞いた人びとの多くは、それでも少なすぎるぐらいだといっていた。


8 スタージョンの法則を逆手にとって、一〇パーセントの存在を忘れない
クラウドソーシングにほんもののマジックがあるとすれば、それは、群衆がネットワークを質の低い作品であふれさせがちなところを正す、群衆自体の能力にある。
機に応じて民主的な手段をとり、がらくたのなかから最高の、もっともよく輝くダイヤモンドを、群衆に探してもらえばよい。


9 コミュニティはつねに正しい
(慈悲深い独裁者は)絶対的な権限を持たない意識上の存在で、人びとを説得できるだけである。コミュニティを導こうとすることはできても、最終的にコミュニティの判断にしたがうのだ。


10 自分のために群衆に何ができるかではなく、群衆のために自分が何ができるかを問う
クラウドソーシングは、個人あるいは企業が群衆のもっとも欲するものを与えれば、もっともうまくいく。これを別の観点から考えれば、クラウドソーシングを成功させるには、マズローの五段階欲求説でいう最上位、自己実現欲求を満足させることである。人びとが参加の方向へ引きつけられるのは、ならかの心理的、社会的、あるいは感情的な必要を満たされるからだ。必要を満たされなければ、参加しない。

<参考情報>
CROWDSOURCING : Jeff Howe のホームページ 更新そのものは止まっているよう

Jeffによる定義
The White Paper Version: Crowdsourcing is the act of taking a job traditionally performed by a designated agent (usually an employee) and outsourcing it to an undefined, generally large group of people in the form of an open call.

The Soundbyte Version: The application of Open Source principles to fields outside of software.

ムービーによる書籍について自信で紹介するトレイラーがある。
2006年にWiredに発表した記事 The Rise of Crowdsourcing が最初らしい。

2011年11月1日火曜日

ジェンキンスによる「トランスメディア」の定義


"Convergence Culture: Where Old and New Media Collide"Henry Jenkins , 2006



元MITで、現在、南カルフォルニア大学教授のHenry Jenkins が行っている「トランスメディア・ストーリーテリング」のわかりやすく明瞭な定義。
Transmedia storytelling is the art of world making. To fully experience any fictional world, consumers must assume the role of hunters and gatherers, chasing down bits of the story across media channels, comparing groups, and collaborating to ensure that everyone who invests time and effort will come away with richer entertainment experience.(P.509 Kindle版) 
<Google翻訳 ベタ張りをちょっとだけ修正、しかし、ひどい訳だ>
トランスメディアのストーリーテリングは、世界創出のアートです。どんなフィクションの世界を十分に経験するためにも、消費者は消費者がメディアチャネル間の物語のビットを、グループを比較し、時間を投資しているすべての人を確保し、努力がより豊かなエンターテイメント体験を離れてくるのコラボレーションを追跡する、狩猟と採集の役割を引き受ける必要があります。
ちょっと、この単語も日本で一般的に知られる様になってきてますね。ジェンキンスが2003年頃から、ファンカルチャーのコミュニティの分析から、積極的に主張し始め、知られるようになった言葉。著書の概要は、コンピュータの発達で、いろいろなメディアが登場したことで、オリジナルのコンテンツと、ファンのコンテンツの境界線が、曖昧になり融合しながら、新しいメディア形態として、発展しているといったような内容。
トランスメディアという考えは、二次創作といった面で、日本の同人コミュニティの考え方に近い部分があるんだけど、微妙に違う印象もする。少なくとも、アメリカでは、コミケといったリアルな空間のドライバーが日本ほど強くないため、ファンカルチャーもウェブ中心である点ところが地域性がある点で、ファンコミュニティの形成の仕方がだいぶ違う。
困ったことに、Jenkinsの著作は、一冊も日本語に訳されていないので、変なタイムラグと誤解が生まれやすい単語になってる。なので、一応、Jenkinsの定義を議論に使えるように貼っておく。
頼むから、どこかの出版社の方、翻訳版出してください。



2011年10月31日月曜日

1960~70年代の米出版業界の変化からうかがえること


 一九六〇年代、出版社が巨大コングロマリットと関係なかった時代は、本が広範囲に宣伝されることなどめったになかった。超大物作家の場合にかぎり販売促進や広告予算が組まれることがあったが、それでも今日の基準で考えたらわずかなものだった。第一、その金の全部といわなくても大部分が「パブリッシャーズ・ウィークリー」や「ニューヨーク・タイムズ・ブックレビュー」等の広告代に使われた。出版社側には新規読者層を開拓する努力をはらう意思などまったくなかった。宣伝の対象となったのは、本がすばらしくかつ比較的安価な楽しみを提供してくれることをすでに知っていた人びとだけであった。
 当時は、宣伝では本は売れないとみんなが信じ込んでいた。他の商品には成功する販売テクニックも、本にだけは当てはまらないという通年がまかり通っていた。本を売るための唯一の手段は読者から読者への口コミだと思われていたのである。確かに口コミは大切だ。が、出版社側が本の宣伝をしないで、出版部数もそれほど大量でないとしたら、口コミを始める機会だってないではないか。読者がある本の所在を知らず、店でも目にすることができないとしたら、口コミをはじめるのにじゅううぶんな読者の数さえ期待できない。通年というものは、ときには全体に共通した無知とも思いちがいともなり得るのである。
 コングロマリットが出版業界に乗り出してくる前は、テレビやラジオで小説の宣伝をすることなどまじめに考えた出版社は一社もなかった。作家が進言したとしてもおどろきと軽蔑をもってあしらわれただろう。誰もが、宣伝とは出版関係誌の読者を対象に行うべきだと思い込んでいたし、ラジオやテレビにかかる巨額な宣伝費にみあうだけの部数が売れるわけがないと思い込んでいた。それにラジオやテレビで宣伝すると本の価値が安っぽくなるから、真の読者層に敬遠されてしまうだろうとも思い込んでいたのだ。このような思い込みが道理を得たものかどうか、ごく大ざっぱな市場調査さえやってみるものはいなかった。調査の必要性を感じたものさえいなかったのである。
 大企業が出版社の吸収に着手するにつれて、長いあいだの通念が捨て去られていった。巨額な宣伝費や販売促進費が注ぎ込まれるようになった。予想通り、最新の販売テクニックは本の市場を急速に拡大していった。利益を貪欲に追い求めるこれらコングロマリットは、たった一〇年のあいだに、本を普通の人たちに近づけることに成功した。(P.59-60)

1970年代にかけてアメリカで起こった書籍の販売手法の大きな変化を作家の側から書いているもの。D・クーンツは、モダンホラーなどの分野で人気のある作家で、この本は小説の書き方の紹介書として、名著の一つといわれるが、おもしろいのがその前半で1章割いて、書籍の販売方法や、市場構造がどう変わってきたのかを作家の視点から書いている。
本は売れなくなり、だめになるという悲観論が吹き荒れていたが、「本はかつてなくよく売れている」と断言している。収益構造が変化することと、売れるジャンルの本が変わる事と、本が売れなくなるということは違うということを指摘している。
日本では、アメリカの書籍業界を論じているような文献はあんまりないと思われるので、新鮮に読んだ。
この部分から読みとれるのは、60年代に始まった米書籍産業の合従連衡は、70年代に資本力による販売手法にとって変わったという点だ。日本でも読まれるアメリカのベストセラー作家達は、この波に乗る形で、数百万部という途方もない販売冊数を売るようになった。この本のこの記述だけで、アメリカの書籍業界のことを語るのは乱暴すぎるが、販売手法を中心にイノベーションが起きたと言えるだろう。
これは、今の電子書籍をめぐる論争を考えていく上でも、重要なヒントになる。kindleといったものは、アメリカでは、整理が進んでいるがために、多数ある販売チャネルの一つととらえられ、そのまま受け止められた。たが、再販売価格維持法や、著者が強い著作権、返本制度など複雑な慣習が存在する日本では、紙を完全に置き換える存在のように過剰に怖がられている面がある。
ただし、確かに、電子書籍は、書籍の収益や利益分配の構造を変える。劇的な変化には恐怖が伴う。だが、これは避けられないだろう。
一方で、本を読む人は、電子化されようが、今と変わらずいるだろう。それが滅びることはない。読書はコストパフォーマンスのよい娯楽であり続けるからだ。